平成17年12月,和楽路の忘年会の席上でのことである。人事異動により着任して間もなかった私は,当然のごとく「芸?」をやり,それが終わってホットしているひと時であった。N野経理長以下6名が壇上に整列し,堀E課長から華麗に体育大会優勝の報告がなされた。ボウリング部の栄えある強力メンバーである。堀E課長の最後の一言は「来年のV2に向け,既に我々はスタートを切っております。先般の人事異動で強力なFA宣言組を2名補強しましたので,万全の体制が整いました」FA宣言組とは,私とH島主任のことである。まだ8か月も先のこととはいえ,(のみの心臓の)私にとっては,大きなプレッシャーとなった。
私がこの体育大会ボウリング大会で5年連続個人優勝したのは,かれこれ10年も前のことである。高校時代の陸上競技では,素質のなさと努力不足から二流選手で終わった私が,国体種目となったボウリングに魅力を感じ,本格的に取り組み出したのは30歳を過ぎてからである。平成4年には,国体最終予選に残り,東京都30歳代男子第4位までいったのであるが,1位にならなければ代表にはなれない。その差62ピン(21G)は,アベレージにすれば3ピンであるが,かなり大きい。最終予選に残った20名の顔ぶれは,自営業かボウリング場職員であり,給与所得者は私だけであった。つまり,物理的にも経済的にも毎日かなりの練習ができる身の上の者でなければ,国体は難しい。私がさくことのできる練習量では,とても追いつくことのできない壁を強く感じていた。平成9年,本店に異動したこともあり,それ以後はボウリングから離れてしまっていた。
堀E課長のあいさつをしっかりと胸に受け止め,翌日から初心に帰って練習を始めたが,アドレスもフォロースルーもまったくバラバラで,回転もスピナー(駒のような回転)気味になっていた。何よりも下半身に安定感がないので,コントロールもままならない。160平均がやっとという状態では,レベルの高いここで6名の正選手枠には入れないであろう。「FAで来て2軍落ちとあっては恥ずかしいなあ」という想いであったが,10年前に比べて10キロ増加した体重を落とさないことには,腰がきれないのだからしょうがない。
週2回程度の練習の消費カロリーはしれている。服RI課長の助言を得て,毎朝30分のジョギングと速歩きのインターバルなどを行い,5月の段階で6キロの減量に成功した。確かに腰の切れは良くなったが,投球練習をするとバックスイングに安定感のないことが自覚できる。
悪戦苦闘しながら,学部の予選会を迎えた。結果は180平均というまあまあの数字を残すことができ,総監督のN野経理長から「登録抹消!」と言われずに済んだ。本番に向け調整的練習を行う時期になったが,なにせ体育大会の期日が,S丘高等学校夏の旅行の帰京日であり,午前9時30分頃箱根を出発し,11時30分には新宿でゲームに臨むと言う強行軍となった。
ミラノボウルにおいてホイッスルが鳴った。旅行の疲れなどとは言っていられないのだが,やはり身体の切れが悪い。コントロールはそこそこだがボウルの回転が悪く,ストライクがなかなか出ない。絶好調のI上主任は,すぐに私の調子を見てとったようである。「課長,辛抱辛抱」と声をかけてくれた。ハイスコアを欲張らずに,ストライクが出なくてもスプリットを防ぐ投球に徹して,確実にスペアを拾う形で,170代キープという作戦に転ずるべきだというアドバイスであった。最近,「自分で自分を褒めてあげたい」という名言ではないが,かなり素直になっていた私は,主任の助言をすぐに受入れ,厚めを狙わずスペアボウリングに徹した。3ゲーム,ほぼ1フレーム2投の私は,半分は1投(ストライク)で済んでいるI上主任より疲労度は高いわけである。ゲーム終了,予定どおり?170台のアベをキープできた。結果はうちのV2達成!表彰式の発表を聞いて,私はホッとしていたが,N野総監督も「よく辛抱したな」と褒めてくれた。
かつて「スーパーエクスプレス」という異名をとり,パワフルなボウリングが身上であった私も,年齢的に「技巧派」転向を余儀なくされたのかなあと,ある意味で感慨深い心境になった,と同時に寂しくもあった。
現在,堀E課長,K杉課長補佐,I田,I上,H島主任,初心者時代の師匠とも言うべきT井さんらと月1回の練習会をやっているが,師匠はまだまだ力強い。年齢的には師匠より若い私が負けてはいられない。V3に向けて,持ち前のパワーを復活すべくがんばらなければと,自分を戒めているこの頃である。(了)
執筆者ゆうちゃん
(平成18年度和楽路会報に寄稿されたものを一部変更して掲載しています)